2017年6月24日土曜日

タリバン アハメド・ラシッド その2

前回
その1

◆米国は1980年から92年までの間、ムジャヒディン支援に40~50億ドルを供与した。サウジアラビアとほかのイスラム諸国、欧州諸国を合わせた援助額も米国のそれに匹敵し、合わせてムジャヒディンは100億ドル以上の援助を受け取ったことになる。
◆これらの援助の大部分は強力な近代兵器として与えられ、純朴な農民がそれを使用し、恐るべき結果をもたらした

カンダハルのムジャヒディン負傷者にとって最も近い医療施設は、ラクダに乗せられ、骨がバラバラになるような2日間の旅をして、国境を越え、やっとたどり着けるパキスタンのクエッタにあった。今日でもタリバンの救急医療施設はまれで、医者もわずかで前線近くに外科医はいない。

◆ペルシャワルには、パキスタンが承認した七つのムジャヒディン政党がありCIA援助の分け前を受け取っていた
◆南部の武装勢力の司令官たちにとって、政党への忠誠度は、ペルシャワルのどの指導者がカネと武器を用意しているかにかかっていた

◆イスラム主義者たちは、アフガニスタンでのイスラム革命を実現するために、部族的伝統を攻撃し、急進的な政治的思想を進めようとしていた。かれらは排他的だったため、少数民族は疑いの目で見ていた
◆戦争前、イスラム主義者たちはアフガン社会にほとんど根がなく、CIAからの資金と武器、パキスタンの支援によって、大きな影響力を築いた
◆1994年までにカンダハルの伝統的勢力はほとんど消滅した。その結果、より過激なイスラム主義者の新たな波、タリバンに自由な活動の場を用意することになった

◆1761年にドゥラニ朝の創始者、アハマド・シャー・ドゥラニが市の配置を整えて以来、カンダハルの姿はほとんど変わっていない。ドゥラニがカンダハルからアフガン国家を築き、200年余の統治を続けたという事実はパシュトゥン人の中でカンダハル住民に特別な地位を与えることになった
◆カンダハルのザクロは、1000年前に書かれたペルシャの医者の処方箋に記されていたし、前世紀にはデリーの英インド総督の食卓に供されていた。タリバンの全国制覇のための大きな資金源となった同市のトラック運送業者たちが、その仕事を始めたのは、前世紀にカンダハルの果物を、デリーやカルカッタに運び出したときだった
◆1993年にクエッタからカンダハルまで、車で行ったことがある。200キロほどの距離の間に、少なくとも20もの武装グループが路上にチェーンを張った検問所を設け、通行料を要求された

◆「タリブ」はイスラム学生のことで、かれらに知識をあたえるムラーに匹敵するだけの、知識を求めていた。タリバン(タリブの複数形)という名称を選んだことで、かれらはムジャヒディンの政党政治と距離を置き、権力を得ようとする政党ではなくて、社会を浄化しようとしているのだと示唆したのだった

◆ムラー・モハメド・オマルほど秘密のベールに包まれた指導者は、今日の世界にはいない。39歳のかれは、決して写真を撮らせないし、西側の外交官やジャーナリストには会わない
◆重要な会合の際には、オマルのそばにオマルの信頼厚い、公式スポークスマンのムラー・ワクリ・アハメドが座る。ワクリはカカール族出身のマドラサの若い学生で、オマルのもとで学び、オマルの付添人、運転手、毒味係、通訳、そして筆記係として仕事についた。
◆どんなアフガンの重要人物でも、まずワクリを通さずには、オマルに達することができない
◆オマルは、強欲な軍閥司令官たちに対する貧乏人の味方のロビンフッドとして姿を現した。何の謝礼も報酬も求めなかったので威信は高まった。

◆パキスタンの対アフガニスタン政策は行き詰っていた
パキスタン軍部は他の民族グループがかれらの命令に従うとは思えず、ヘクマティアルを支持し続けた
◆1994年までにヘクマティアルは、軍事的に支配範囲を縮小し、かれの過激主義がパシュトゥンを分裂させ、多数のパシュトゥンに嫌われるなど、明らかに失敗していた。パキスタンは次第にこの失敗者への支援に疲れ、それに代わるパシュトゥンの代理人を探していた
◆パキスタンはヘクマティアル派が警護していたスピン・バルダクの町外にある大きな武器貯蔵庫の占領をタリバンに許した
◆スピン・バルダクの占領でカンダハルの軍閥たちは心配し、パキスタンがタリバンを支援していると非難したが、新たな脅威に対して団結するどころか内部抗争を続けていた

◆1994年11月3日、タリバンが行動を開始、軍閥部隊を攻撃した。同じ夜、タリバンはカンダハルに入り、2日間の散発的な戦闘の後、司令官たちの部隊を敗走させた。
◆まだほとんどの人に知られていなかった、武装勢力タリバンは、十数人の犠牲者を出しただけで、アフガニスタン第二の都市を占領した

◆タリバンはただちに、イスラム世界で最も厳格な解釈によるシャーリア(イスラム法)を実施した。女学生は閉鎖され、家の外で女性が働くことを禁止、テレビはぶち壊された。あらゆるスポーツや娯楽も禁止、すべての男性はあごひげを生やすように命令された。
次の三ヶ月間にタリバンはアフガニスタン31州のうち12州を支配、道路を開き、一般国民を武装解除した

つづき
その3




こちらも。
アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ モフセン・マフマルバフ

///////////////////////////////////////
◆Line@ 
ブログの更新をお知らせしたり、
ブログとは別にリアルタイムで良いことつぶやきます。
直接やりとりしたり、勉強しながら、一緒に精鋭になりましょう!
@zvf9388t で検索!(必ず@を入れてね)


line://ti/p/@zvf9388t

◆ブログ◆
文系医療の本棚~本を読んでまとめる~

◆twitter◆
文系医療チームの本棚bot 塚崎匡平


◆facebook◆
塚崎匡平

0 件のコメント:

コメントを投稿