2017年4月9日日曜日

タリバン アハメド・ラシッド その1

今年はイスラム系の知識を強化していく。
医療はあんまり関係ないけど教養として。

この本は筆者の人生をかけた長力作で、
これを熟読すれば、1970~2000年くらいまでのアフガニスタン、パキスタン及びその周辺国についての知識ががっつり付く。

最初のうちは都市と周辺国の地理観の無さ、
似たような名前とイスラム用語の多さにうんざりするが、
慣れてくると凄く複雑な国の事情が分かってくる。

何より日本と違って難しいことは、
国境と、住んでいる民族及び宗教宗派が一致していないこと。
日本にいかに厳格な宗教がなく、単一民族であることが、
平和を維持する要因になってきたかがよく分かると思う。

アメリカやロシアに振り回されているところは似ているけど、
その度合いというか、質が大きく違うかな。
関係ない国の思惑によって、人が本当に死にまくっている。

移民問題や宗教問題などを考える時にも、
大きな参考になるでしょう。


序章
◆タリバンを構成するのは、2000万のアフガニスタン人口の約40%を占めるパシュトゥン人。パシュトゥン人は、かつて300年にわたりアフガニスタンを支配したが、最近は他の少数民族によって、その地位を失っていた
◆女性は男性をイスラムが定める道から踏み外させ、欲望に駆り立てるので、家族以外の男性から見られることも声を聞かれることもしてはならない、というタリバンの教義に脅威を与えていた

◆1996年、タリバンがカブールを占領したとき、初めは解放者として歓迎したカブール市民と国際世論は、タリバンがナジブラ大統領を拷問したうえ、公開処刑したことへの嫌悪感から、そっぽを向いてしまった。
◆パキスタンとサウジアラビアはタリバンを支援した。タリバンはこの地域全体に前例のない分極化をもたらした

◆この地域的な激動の核心にあるのは、陸に閉ざされた中央アジアの巨大な石油・天然ガスをめぐる争奪戦だ。同じく重要なのは、このエネルギー資源を欧州とアジアの市場に運び出すために必要な、大規模パイプライン建設をめぐる地域各国と西側石油企業間の激しい競争だ

◆古い世界の王たちは、アフガニスタン地域を世界の中心と信じ、その見方は近代にまで引き継がれていた。20世紀初めの英インド総督はアフガニスタンを「アジアの操縦席」と呼んだ
◆アフガニスタンの土地のわずか10~12パーセントが耕作可能だが、山の斜面にぶらさがったような畑も含めた農耕地は、収穫を維持するには大変な労働力が必要だ。
◆昨日のアフガン遊牧民は、今日の貿易商、トラック運転手で、アフガニスタンを通る密輸ルートにトラックを走らせる、タリバンの最も重要な支持基盤、収入源となっている

◆1219年、チンギス・ハンが率いるモンゴル騎馬軍団は、バルフやヘラートなどの都市を破壊した。しかし、モンゴル人は、かれらと原住民との混血で生まれた、現在のハザラ人を残すという貢献もした。
◆チンギス・ハンの子孫チムールが、ロシアからペルシャにかけて広がる巨大帝国を作った
◆トルコ系であるチムール帝国の人々は、ペルシャ文明の範囲内にあった中央アジアに、トルコ系の遊牧文化を植えつけ、ヘラートを世界で最も文化的で、洗練された都市の一つにしていった
◆チムールの子孫バーブルはムガール帝国を築き、帝国は英国がやってくるまで、インドを統治した。
◆16世紀までに、アフガニスタン西部は、サファビ朝のペルシャ人の支配下に再び戻った
◆このような侵略の歴史は、複雑な民族的、文化的、宗教的混合をもたらし、アフガニスタンの国家創造を極めて困難にした。

◆18世紀の歴史的混乱期に、アフガニスタンで近代国家を創ろうとしたのが南部のパシュトゥン人だった
◆パシュトゥンの諸部族は、大きくギルザイ、アブダリの二つに分かれており、しばしば、対抗していた。
◆1709年、カンダハルのギルザイ・パシュトゥンのホタキ族長、ミル・ワイスが、サファビ朝のシャー(王)に反乱を起こした。反乱の一因は、シャーが、熱心なスンニ派だったホタキ族を、シーア派に改宗させようとしたことだった
◆歴史的な憎悪の感情は三世紀後、イラン、アフガニスタンのシーア派に対するタリバンの敵意になってよみがえった。数年後、ミル・ワイスの息子が、サファビ朝を倒し、イランを征服した。しかし、アフガン人たちは1729年、イランから追い出された

◆ギルザイの力が衰えると、カンダハルにいた長年の対抗勢力、アブダリ・パシュトゥンが部族連合を結成した。
◆1747年、ロヤ・ジルガ(国民大会議)でアハマド・シャー・アブダリを王に選出。ロヤ・ジルガは伝統的な法的機関となり、新しい支配者に正当性を与え、世襲制を避けることになった
◆アハマド・シャーはアブダリ連合をドゥラニと改称。現在のパキスタンの大半を支配するようになった。1761年までに、デリーの王座とカシミールを手中にして、最初のアフガン帝国を築いた

◆ドゥラニの氏族が1973年まで、200年以上もアフガニスタンを支配し続ける
◆ギルザイとドゥラニのとげとげしい対立は続き、1979年末のソ連軍侵攻の結果さらに激化、タリバンの登場となる

◆19世紀、英国は、中央アジアへのロシア帝国の膨張が、インドの英帝国に対抗してアフガニスタンに進出するかもしれない、と警戒した
◆それに続いたのはロシア帝国と英帝国の覇権争い「グレート・ゲーム」で、知恵と賄賂の秘密戦争と、時たまの軍事行動だった。
◆ドゥラニ支配者たちの争いが激化したことが、アフガニスタンの王たちを弱体化させ、収入を増やすために英国に依存させることになった。その結果、非パシュトゥン人のグループがカブール中央の支配から離れはじめた
◆パシュトゥン人の勢力は、英国がインド北西部を支配したため、さらに弱まった。諸部族が英植民地インドとアフガニスタンに分離させられたからである。1893年に英国が引いたデュランド・ラインによって確定。

◆第二次アフガン戦争の後、英国はアミール・アブドル・ラーマンの王位主張を支持した。「鉄のアミール」と呼ばれた国王は、英国の補助金と武器供与を投じて、効率的な行政組織と強力な軍隊をつくった
◆かれはパシュトゥン人の中の敵性部族を従え、ハザラ人、ウズベク人の自治を容赦なくつぶすため北へ進軍した。一世紀後にタリバンがそっくり同じように行動した
◆民族浄化、非パシュトゥン人反対勢力の集団殺害、北部へのパシュトゥン農民の移住、他の民族の間に忠実なパシュトゥン人口を増やすなどの手法
◆「鉄のアミール」の後継者たちは、近代化指向で、1919年に英国からの完全独立を達成、最初の憲法を制定し、都会的教育を受けた少数のエリートを育て始めた。にもかかわらず、二人の国王が暗殺され、他民族の部族社会を近代国家に帰る時に、支配者がぶつかる困難を示す

◆ドゥラニ王朝はダウドの無血クーデターで終わる。
◆アフガニスタンは1973年、共和国を宣言し、ダウドは大統領になる。
◆ダウドはイスラム原理主義者たちを弾圧
◆ダウドは国家近代化のため、援助を求めてソ連に接近。
◆1978年、軍内部のマルクス主義シンパ(ソ連で軍事訓練を受け、元はダウド支持者)たちが、流血のクーデターでダウド政権を倒す。
◆ダウドと家族、大統領の護衛は全員、殺された。

◆共産主義者たちは、ハルク(人民)派とパルチャム(旗)派に分裂。
◆ムラ―(イスラム指導者)たちとハン(族長)たちは共産主義者に対するジハードを宣言、共産主義者のエリートたちは流血の内部抗争に
◆ハルク派の初代大統領タラキは殺害され、後継者のアミン1979年、ソ連軍が侵攻し、パルチャム派の指導者カルマルを大統領に据えた時に殺害された
◆ジハードは、米国、中国そしてアラブ諸国が資金と武器をムジャヒディン(軍閥)に注ぎ込んだために、いっそう勢いをつけた。この戦争でアフガン人150万人が死亡したといわれており、1989年にソ連が撤退して終了

つづき
その2



こちらも
アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ モフセン・マフマルバフ

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