2017年3月16日木曜日

青木新門 納棺夫日記 その1

知ってる人は知ってると思うが、
本木雅弘主演で映画化された「おくりびと」の原作の本である。

私も「おくりびと」は昔見たことがあったので、
その原作小説なのかなぁという程度で読み始めた。

が、全然違った。

本編は全3章、文庫にして140ページという手の伸びやすいサイズ。
1章は確かに「おくりびと」の原作となるようなエッセイだった。

この話自体、私はそういう職業の人にスポットライトを当てた創作話だと思っていたが、
実際は作家であるこの作者自身が、経営していた店が潰れて、
仕事を探し、葬儀屋へ就職した経験を基にしたエッセイだった。

問題は第2章以降である。

そもそも早稲田を中退して文学の道を目指していた青木氏。
目の付け所も考える力も素養がある。

そんな氏が仕事で日々、死と向き合う。
大概の人はそこで目を逸らす。
そこにある亡骸をモノのように考え、慣れようとする。

ただ、作者は見つめた。
「我々はどこへ行くのか?」
そして深く深く悩み、考察していく。

今回は第1章です。


◆湯灌というのは、長い間寝たきりの状態で死亡した死者を送り出すとき、せめてきれいな体にしてあげようと、全身を洗い清めた風習である。今日では、だんだん病院脂肪が多くなり、アルコールで吹くという方式に変わってきている。
◆葬儀屋の社会的地位は最低であるし、納棺夫や火葬夫となると、死や死体が忌み嫌われるように嫌われているのが現状である
◆職業に貴賤はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実がある限り、納棺夫や火葬夫はみじめである
◆死をタブー視する社会通念を云々していながら、自分自身その社会通念の延長線上にいることに気づいていなかった。社会通念を変えたければ、自分の心を変えればいいのだ。心が変われば、行動が変わる
◆自分の職業を卑下し、携わっているそのことに劣等感を抱きながら、金だけにこだわる姿勢からは、職業の社会的地位など望むべきもない。それでいて、社会から白い目で見られることを社会の所為にし、社会を恨んだりしている。己の携わっている仕事の本質から目をそらして、その仕事が成ったり、人から信頼される職業となるはずがない

◆「ケガレ」の内容は、既に古代の「延喜式」の中に細かく規定されている。その中でも、特に死穢(しえ)と血穢(けつえ)は穢れの最もたるものとされている
◆死穢とは、死や死者を不浄なものとしてとらえ、死や死者に纏わる一切のものは不浄なものとされる。また血穢は、怪我などの出血の「けが」の意味もあるが、女の出血(月経)の穢れが強調され、やがて女性そのものが穢れた存在とされてゆく
◆糞尿も汚穢(おわい)ということで穢れの対象であった
◆どうしても隔離したり遠ざけたりできない場合に、不浄や穢れを浄化する儀式としてオハライやキヨメを行い、一瞬にしてハレに転換する
◆なぜキヨメに塩なのかという問いに「古事記」に出てくる神話によるとする説もある

◆西洋の思想では、生か死であって<生死>というとらえ方はない。その点東洋の思想、特に仏教は、生死を一体としてとらえてきた
◆死の占める割合が多い時代では、死は多く語られ、時には美化される傾向にあり、今日のように日常生活の中にも思想の中にも死が見当たらないような生の時代には、死は敗北であり悪であるとする傾向になる。
◆既存の宗教は、時代の変化についていけないようである。人生の四苦である生・老・病・死を解決することが本来の目的であったはずの仏教が、死後の葬式や法要にスタンスを移し、目的を見失ったまま教条的な説教を繰り返しているというありさまである。

つづき
その2




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